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2011年05月23日

[5月20日の日記]母親と話をかみ合わせられないせつなさ

[5月20日]

 今日5月20日は、母親の誕生日で、介護施設(自宅から車で15分、特別養護老人ホーム)まで訪ねてきた。私は高齢の両親のもとに生まれており、母はもう90代後半になる。認知症の兆しが出始めてから、もう10年をとっくに超えた。


 昨年あたりから、それまで落ち着いていた認知症がかなり進み、私が会いに行っても、私が自分の息子であると分かっているような反応がほとんどなくなりつつある。かつては(数日前に来ていても)「久しぶりだね〜」「よくここが分かったね」「なんか持って帰りなさい」なんて会話ができていたのだけれど、最近は、言葉数さえ少なく、会話はほとんど成り立たない。

 今日は紙に「お誕生日おめでとう」と書いて見せてみたのだけれど(視力はいいので字は読める)、声を出して読んでくれたものの、自分のことだと思っている感じではない。話しをかみ合わせられない微妙な哀しみをグッとこらえて、介護施設を後にする。


 母親の生活は、ほとんど「寝たきり」で、のどの力が弱っているから、食事もゼリー状にしたものを食べている。食欲はまあまああり、完食も少なくない。時々はベッドからテレビを観る時もある。聴力はかなり落ちていて、補聴器を嫌うので、文字付きの画面を眺めている。今回の地震や津波や原子力発電所のことは知っているのだろうか? ぶっちゃけ、こんな形で生きていることに意味はあるんだろうか、なんて考えてしまう時もある……。

 母親の気持ちがわからないのはかなりつらい。いまどんな気持ちで暮らしているのか、尋ねようがない。自分が何をしているのかを伝えることもできない。つまりは、コミュニケーションができない。

 何かを表現したいのかな、と思う時はある。悲しそうな目で見つめたり、なぜか口で私の手をかんだり、「お尻が痛い」と突然言ったり(寝ている時間が長いので褥瘡=じょくそう=床ずれがある)……もう、「えいや」っと、日常会話をあきらめて、母親が穏やかに施設で暮していればいいや、と自分に言い聞かせるのだけれど、施設へ行った帰りはどうしても寂しくなってしまう。何回かに一度、微笑んでくれると、だいぶホッとするのだが。


 でも、どんな人間にも、生きているだけで(いや、死んでからさえも)価値があるんだから、母親もきっと、母親なりに、生きていて、そこには必ず「意味」があるはずだ。そしてたぶん、私に何かを教えようとしているんだ。それが見えてくるまで、このせつなさと付き合い続けるしかないんだ。
posted by さとる at 20:28| 日記