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2008年11月11日

信じよう、「愛」を、母親を、そして自分を

 母親の介護を始めてから、もう11年(家事を全部自分が引き受けるようになってからだと13年)、介護施設に入って9年になる。


 やっと今年の5月から特別養護老人ホームに入れて、金銭的な負担はだいぶ楽になったけれど、母親の長期入院も含めて今までにかけた介護費用はかなり大きく、借金もある。

 この11年間、何度も気持ちの上がり下がりがあった。特に母親の体調が悪い時は、比例してこちらも落ち込んだ。長期入院のあと床ずれができて、整形外科に通院した時も、通院付添を施設のヘルパーさんに頼むと大変な費用になるので、週2〜3回、忙しい仕事の合間をぬって、施設から病院まで私が車イスで連れていって診療を受けたこともあった。

 その長期入院も、病院側が無断で保険外の薬を使ったり、看護師の強引なおむつの取り換え方に母親がすっかりおびえ、身体に触られることを恐がるようになったり(今でも多少残っている)、そのおむつの取り換えにかかる費用が水増しされていたりと、二度と生きたくない病院として悪夢のように思い出される(医師や看護師が大変なことはわかっているが、その病院は特別ひどかった、救急車で搬送されたので選べなかったのだ)。


 普段の時でも、母親が風邪などで体調を崩すと、認知能力が低下し、私を息子ではなく別人だと思ってしまうこともある。過去の世界にタイムスリップして生きているのだ、と解釈しても、つい「あなたの息子ですよ」と何度も耳もとで言ってしまう。

 そんな時は消耗する。もっとゆったり構えられるようになりたい、とつくづく思う。ここ1ヶ月ほどは身体も心も安定しているので、穏やかに「その一瞬」の会話を楽しんでいるけれど、しんどいなぁ、とため息が出ることもある。


 母親のために多額のお金を稼ぎ出さねばならないことについては、心の中で決着がついている。今まで私のために精根尽くしてくれたことに対して、当然の「お礼」をしていると心から考えられるようになったのだ。自分の生活の中で、母親を「養う」ことが「子育て」のように「自然体」で日常化している。

 最近あることに気付いた。それでもまだ私の心の中にあるもやもやするものの根源に。私は母親に対し、「感謝してほしい」「ありがとうと言ってほしい」と心の奥で思っているのだ。

 私が母親の介護費を作ってきた苦労を、パートナーや友だちのように、母親にも「頑張ったね」と声かけしてほしいのだ。


 時に「お母さんがここにいる費用を稼ぐんで、とってもたくさん、忙しく仕事をしているんですよ」と話しかけてみたこともあった。でも理解してもらえなかった。それどころか、私が勝手に遊んでいるような言われ方をされる時もある。

 まれに「仕事大変だね」と言ってもらえると、それだけでずいぶんいやされたこともあった。


 でもね、これは私の認知が間違っているのではないか、とも考えた。母親は無償で私に愛を注いでくれた。私はどれだけ母親に感謝の言葉を返しただろう、と振り返る。

 いま母親から無理やり「感謝の言葉」を引き出すことにどれだけ意味があるだろう。穏やかにその日その日を過ごしていてくれたら、そしてそれを私も穏やかに眺めていることができたら、それでいいではないか。

 いやきっと母親はどこかで分かっているにちがいないのだ。母親はとにかく私をいつも信じてくれていた。だから私がきっと充実した人生を送っているだろう、と確信しているにちがいないのだ。言葉ではない。ここは母親がまだまだ発し続けている私への「愛」という「気」を浴びていればいいだけではないのか。


 こうして想いをつづることで気持ちがさらに落ち着いてきた。信じよう、母親を、自分を。

posted by さとる at 13:45| 日記